2010年11月04日

日本初のプロジャズバンドが神戸で誕生した(1)

神戸新聞「新兵庫人」(2009/09/13)より

スイングが聞こえる街に 神戸流、みんな一緒に楽しむ24b.jpg「自由に楽しむのが一番」と高校生に教えるカルロス菅野さん。「踊りたくなるような音楽をしよう」=神戸市中央区港島中町7、ジーベックホール(撮影・大森 武)
 神戸・北野坂周辺に点在する十数カ所のライブ会場。出演者と客が互いに目の合う親密な距離で、数々のセッションが繰り広げられる。

 今年で28回目を迎える音楽イベント「神戸ジャズストリート」。生みの親で現在も中核を担う音楽プロデューサー末廣光夫(80)は、おなじみの光景に目を細める。

 1982年に始まった、神戸の秋の風物詩。国内だけでなく海外からも出演を希望する声が届く。

 幼いころからジャズが好きだった。ラジオ神戸(現・ラジオ関西)勤務時代、コンサートの司会や企画で全国を回り、秋満義孝(ピアノ)ら今日のジャズ界の重鎮と知り合う。60年代、ルイ・アームストロングら巨匠と出会うが、日本人とのセッションがほとんどないことに気付いた。

 聴衆が「本場の音楽を聴きたい。黄色い顔のジャズメンはいらない」と嫌がったのが理由だが、地元アマチュアの気迫あふれる演奏やファンを楽しませる熱意を知っているだけに違和感を抱いた。

 81年、自らもかかわった神戸ポートアイランド博覧会内のジャズフェスティバルで、日米ジャズメンの演奏に4日間で延べ4万人が集まったのを見て、実感する。「1回で終わらせる手はない」

 当時、NHK朝の連続テレビ小説「風見鶏」の舞台となった神戸・北野の異人館街が注目を浴び、ハイセンスな店が続々オープン。北野坂には新しいライブハウスもでき、10カ所をピックアップした。「そぞろ歩いてジャズを楽しむ。はしご酒ならぬ、はしごジャズ」と説き、人脈を駆使してミュージシャンを集めた。

 面的な地域を会場とするジャズイベントは、その後、全国各地に広がる。年々、注目が高まる中、阪神・淡路大震災に遭遇する。中止が頭をよぎったが、全国のファンやスポンサーから声援、支援金が寄せられた。感謝と激励の思いを込め、マーチングジャズバンドによる開幕パレードを北野坂で決行。その後の名物行事が誕生した。

 2日間のイベントに延べ約5千人が集う。「プロもアマも、国籍も関係ない。ファンも一緒に楽しむ。ジャズはみんな一つ、が神戸流です」
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2010年11月03日

世界で初めて、自動運転の新交通システム

神戸新聞「新兵庫人」(2009/08/23)より

環境重視の追い風商機に 最新の技術 次は日本から発信
21b.jpg「電車の命は台車」と話す金花芳則さん。終戦直後に始まった高速走行の研究を生かし、1949年に山陽電鉄に納めた「OK―3」台車とともに=神戸市兵庫区、川崎重工業兵庫工場(撮影・山口 登)
 川崎重工業の新型路面電車「スイモ」は今春、米国の見本市に出品された。車両部門の執行役員、金花(かねはな)芳則(55)は「価格競争でなく、架線や電柱がいらない価値を分かる顧客に大事に売りたい。仕込みは始めてますよ」と自信を見せる。

 神戸市出身。ニューヨークの地下鉄を製造する米国子会社や、欧州で商機を探るロンドン事務所など社歴の大半を海外で過ごした。仕事の中心は「契約社会に、浪花節を広める」だった。

 世界の電車市場を席巻する海外の大手メーカーは、故障が起きると契約書で、まず責任の所在を確認する。だが金花は「まず修理。お金の話はそれから。米国が夜中でも日本は朝だから24時間対応できる」。顧客を重んじる日本の企業文化、つまり浪花節を知ると、鉄道会社に「カワサキ」ファンが増えていく。

 鉄道車両の要は、台車といわれる。座席や車体と違い、目に触れにくい部分だが、車輪や車軸、ブレーキやモーターなどを組み込み車体を支えるだけに、乗り心地や走行性能、安全性に直結する。
 20年近く前、欧州の車両コンペで川重が落選した。大半の項目はパスしたが、台車の溶接が芸術的な出来栄えで、量産は難しいのでは―。金花は審査員から聞かされた。「うちでは当たり前の溶接なのに」。振り返り、苦笑する金花。技術水準の高さを確信したエピソードでもある。

 鉄道は自動車や航空機に比べエネルギー消費量や二酸化炭素排出量が少なく、世界各国が関心を深めている。米国のオバマ大統領は「グリーン・ニューディール」と銘打ち、鉄道新設などを公共事業の柱に位置付けた。金花の耳にも、地下鉄や路面電車の新設案が届き始めた。「石油と自動車の国が、変わり始めた」と追い風を実感する。米子会社の受注も増えそうだ。

 コスト面で不利でも、台車は神戸で造る。「車両メーカーで一番大事なのは、人。溶接や組み立てに熟練の技がいる。鉄道が衰退した米国はメーカーも技も衰退している」

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2010年11月02日

全国初の住宅ローン[地域との共栄 開発の原点]

神戸新聞「新兵庫人」(2009/08/09)

「住み続けたい沿線」の言葉が励み 19b.jpg
宝塚ファミリーランド跡地の超高層マンション開発に携わった高橋秀一郎さん。「私たちは沿線を生かし、沿線に生かされている」=宝塚市、宝塚ガーデンフィールズ(撮影・岡田育磨)

 もともと田んぼや畑だったところに線路を敷いた阪急。1910(明治43)年に現在の宝塚線と箕面線、その10年後に神戸線を開業した。

 全国初の住宅ローンを導入して沿線に住宅地を開発。並行して遊園地や球場などの行楽施設を造り、沿線住民を乗客として誘致する。「乗客は電車が創造する」。小林一三(いちぞう)の言葉には、沿線開発を重視した経営理念への自信がみなぎる。一三が築いた鉄道と不動産を基軸とした多角経営手法は、他の鉄道会社も競って導入した“最強”のビジネスモデルだった。

 一三の追想録編さんに携わった元阪急電鉄専務、松原徳一(73)は述懐する。「一三翁が大阪・池田室町で始めた30年月賦による宅地開発は、庶民に手が届く形で住宅を提供したが、家を買った人が30年間は沿線から出て行かない『囲い込み』でもあった」。私鉄と住民が一緒にまちづくりをしようとの機運を生み、“阪急平野”とも呼ばれる独自の生活文化圏を形成した。

 だが最強モデルからの脱却は、関西では90年代から本格化する。沿線の開発用地の払底、バブル経済の崩壊や乗客減…。経営悪化で沿線にあった行楽施設の多くが商業施設や住宅に転換していく。

 2003年、経営不振で閉園した宝塚ファミリーランド。阪急不動産専務、高橋秀一郎(55)=宝塚市=は当時、阪急電鉄幹部として、跡地の再開発事業に携わった。

 広さ約5ヘクタール。社内では全面売却を主張する声もあった。「売るのは簡単だが、阪急が宝塚で果たしてきた役割を無視した土地利用はできない。短期的な収益ではなく5年、10年後も見据え、新たな地域ブランドや価値の創造につながる活用策を議論した」

 高橋もよく遊んだ“夢のおもちゃ箱”は、英国風庭園が広がり、超高層マンションや住宅展示場、関西学院初等部など多様な都市機能がそろう空間に生まれ変わった。

 「大切なのは地域との共存共栄。沿線で商売をする鉄道会社は、失敗したからといって安易に撤退できない」

 沿線の価値を高めることが企業価値を高める。事業を手掛けるとき、地域の期待と信頼を常に意識してきた。


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2010年11月01日

官民支え合い 時代を築く

神戸新聞「新兵庫人」(2009/05/04)より

人々のエネルギーが発展の源
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震災で全壊したレンガ倉庫の壁を復元した神明倉庫社長の藤尾憲弘さん。「オーナー企業の三代目として名実共に自分を磨く必要があった」と振り返る=神戸市中央区海岸通6(撮影・中西大二)

ファッション、洋菓子、異人館街…。神戸が誇るブランドイメージは、すべてがミナトから来た。ジャズやテニス、ゴルフ、ボウリングも神戸が発祥の地とされる。

 新暦一八六八年一月一日、幕府最後の大仕事として動乱の最中に開港した神戸港。食料や衣服、家財道具など物流のすべてが集約された後、全国各地に届けられていく。小さな港町は活気にあふれ、一時期は神戸市民の七割がミナトにかかわる仕事をしているとも言われた。町はミナトを中心に山手へと広がった。

 「神戸イコール港湾。行政と民間が一体となって、神戸港はここまで育ってきた」。終戦直後に創業した神明倉庫の三代目社長藤尾憲弘(41)は断言する。

 高度成長期、「山、海へ行く」を合言葉にポートアイランド造成など、行政挙げてのインフラ整備が始まった。一九七七年にはコンテナ貨物取り扱い個数世界二位となり、九四年には戦後最高の取扱量を記録。「東アジアのハブ港」と呼ばれた栄光の時代だ。

 その流れを震災が断ち切った。崩れた港には船が入れず、ほとんどの取引は停止状態。ひしめき合っていた船舶は潮が引くように大阪港、そして中国・上海や韓国・釜山へと移っていった。

 神明倉庫でも、創業の地・海岸通にあったレンガ倉庫が全壊。二年間、貨物が入ってこない事態が続き、壊滅的な打撃を受けた。だが藤尾は「あの日を境に、官と民の協力関係が強固になった」と話す。

 「顧客や地域のために汗をかけ」「人に気を使え」。幼いころから創業者の祖父と父にオーナー学をたたき込まれた藤尾は、倉庫業の傍ら、介護付き老人ホームの経営や震災モニュメントの復元などに携わる。従来の港湾業の枠にとらわれない異色の存在だ。

 「ミナトは本来、義理人情の世界。助け合うのが絶対条件の市場」と藤尾。荷主や商社はもちろん、倉庫がいっぱいになれば、同業者に協力を頼むこともある。自社の利益を追求するだけでは経営は続かない。老舗会社が多い神戸港ではなおさらだ。「港湾全体を元気にすれば、会社を長生きさせることにつながる」と、神戸メリケンフェスタなど観光客誘致イベントにも知恵を絞る。
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posted by NETMKスタッフ at 11:11| 兵庫 🌁| Comment(0) | 神戸発祥物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする